のんびり岐阜まちなか歩き

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町屋を訪ねて〜川原町屋

町屋(まちや)とは、町人の住宅のことである、つまり、農家に対し商業や工業を営むための都市住宅である

町家(まちや・ちょうか)ともいい、特に商いの場を兼ねた町屋は商家(しょうか)と呼ばれることもある

あるいは町屋の街並みをさし、商家の街並みは商家町ということもある、宿場における街並みは宿場町と呼ばれ、城下においては城下町と呼ばれる

 

 

町屋はあっても見学するところは少ないです、現在も生活をなさっているところもありますので

岐阜にも町屋は残ってます、現在はお店と利用していて見学が出来るところを紹介します

 

ここ川原町屋は築100年を越えて、現在お洒落なカフェとして皆さん利用されてます

 

入口を入ると、小物などを販売しているスペースです

 

 

和雑貨を中心に小さな置物まで、見ているだけで楽しくなります

和紙なども充実しています、ここは昔紙問屋でした、長良川の上流美濃市より美濃和紙がここを経て各地に配達されました

雑貨が置いてあるところは畳で、その奥から2階へ上がることが出来ます、2階からの川原町の景色も良いものです

 

上を見ると、吹き抜けがあって明かり窓があります、普通の日本建築の家ではあまり有りませんね

 

 

それから奥へ行くと、カウンターがあってそこで珈琲など入れてます

その奥に中庭があって蔵へと続いています

 

 

蔵はもちろん紙問屋だった頃は紙が沢山積まれてあったのでしょう

現在は喫茶スペースとして落ち着きの空間となっています、2階もあって小さなギャラリーの空間です

 

蔵の横から裏に抜けることが出来ます

階段があってそこは下がっていきます、昔裏は水路が引かれてあって舟で裏まで着けることが出来ました

 

 

上流より荷船が来ると裏まで引き込んで、そこから荷を上げた模様です

この裏は、蔵のある散歩道として良い感じになってます、歩かれると分かりますが家までの高さに石垣があって、昔水路だった名残があります

 

蔵の裏には、月見台と言われているテラスがあって、そこから金華山岐阜城が見えます

カフェで休憩されるだけだと、ここまでは入って行けませんので知らない方も多いかと思います

裏に回ると赤い和傘が立ってますのでよく分かります、黒い塀と赤い傘が素敵な良い被写体になってます

 

 

表の間口に比べて奥に入っていくと、とても長いことに気がつきます

いわゆる「うなぎの寝床」で、昔の税金が間口で決まってましたので、細長い家が出来ました

 

ゆっくりお茶も良いですが、歴史有る町屋のなかも味わうのも良いではないでしょうか

 



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水路沿いの散歩道

岐阜の夏は暑いです

 

岐阜公園から川原町に移動されるときに、ここを利用してはいかがでしょうか観光で岐阜に来られている方、移動するだけで体力が消耗してしまいます

 

湊コミュニティ水路です、駐車場のよこから川原町広場まで行けます

 

 

湊コミュニティ水路は、長良川の清流を引き込んだ忠節用水放水路沿いに、緑の回廊ともいうべき藤棚下の散策道と木覧デッキ・八ツ橋・滝組前の沢飛石、及び親水階段と玉石河床などを配した水辺の施設となっております

魚の棲める深みや四季折々に咲く植栽など散策道を歩くと自然に水と緑に触れられるようになっています

1987年から1988年にかけて施工され、放水路の流路延長は330mです

 

 

水路の流れの他、壁泉などがあり涼しさを感じられます

 

忠節用水路からの放水を調節する「ロボット水門」が、独特な景観をつくりだし、このコミュニティ水路の象徴となっており、地域の人々に親しまれています

 

 

この水路の親水広場が、岐阜公園日中友好庭園内にあります

水が階段状の所を流れ落ち、壁やキュービクルに水が伝わり涼しさを演出しています

 

 

ロボット水門の所から入り、パーゴラをくぐり木のデッキに出ます、その向こう側には壁泉が有りその下の石垣に水が流れていきます

 

長良橋線の道路下をくぐり、川原町広場へ向かいます

道路下はトンネル状態ですので、少しひんやりします

 

 

広場前には滝風に水が流れ、飛び石が設置されています、その向こうにはまたパーゴラがあります

 

 

モニュメントとして、欄干の上にリスが居ます、金華山のリス村のリスなんでしょうか、そしてその横にリスの好きなドングリのモニュメントがあります

 

 

しかし、リスに対して凄くデカイです、こんなのが有れば、リスは大喜びでしょうか(笑)

 

 

これからの時期、アスファルト上を歩くのが暑いです、こちらを通ってはいかがでしょうか、でかいドングリを探しながら

 

場所は、岐阜市にある金華山の麓、岐阜公園堤外駐車場に隣接する水路です



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中山道河渡宿

河渡宿は長良川の渡しで栄えた宿場です

当時、長良川の川幅は約90m(水のあるところ常水位の時)で出水時は270mにもなり、約190mくらいで川止めになったそうです

 

 

しかし、平常水位の時は美濃最大で遊郭などがあった加納宿に旅人は急いだり留まったりして、宿場として余り潤わなかったそうです

 

河渡の渡しの上流に、小紅の渡しがあります、現在も残ってます

 

渡し場の跡は現在見あたりません、ただ堤防上に祠(ほこら)が一つあって渡し場跡を表しています

 

岐阜市内より河渡の渡しから少し行くと、馬頭観音があります

 

 

荷駄役人足が天保13年(1842)にお金を出し合い、道中家内安全、五穀豊穣を祈願し愛染明王を祀るため六間四面のお堂を建立しました

明治時代の洪水での被害や濃尾大震災での被害などと老朽化したため、昭和59年に建てかえられました

 

馬頭観音より南の道が中山道で、現在新しい家並みになっていてその中央辺りに、中山道河渡宿と書いてある碑があります

その碑の場所は一里塚跡でもあります

 

 

この宿場は脇本陣はありませんでしたが本陣は置かれていました、一里塚跡より東の方らしいですが碑も何もありません

宿場の概要、本陣1軒・旅籠24軒・家数64軒・人口272人・幕府領1843年宿高1300石

その他に酒屋、薬屋、豆腐屋、煙草屋などが記録されています

 

 

この場所は東に長良川、北に根尾川南西に糸貫川があり土地が低い位置にあって、洪水などの被害がありました

特に文化12年6月には未曾有の洪水に見舞われ、このままでは宿も途絶えるのではと思われるほどになったそうです

 

その時の代官「松下内匠」が宿中を五尺余り土盛りをして、その上に家屋を改築して、文化15年に工事を完成させ洪水に耐えるようにしました

この功績に対し村人は、感謝しのちに「松下神社」を建立しました

しかし、神社も碑も太平洋戦争の戦災に遭い、現在は碑も一部しか残っていません

 

 

周りが田園で小さな集落でありましたが、太平洋戦争の岐阜の空襲により焼けてしまい昔の建物などは残っていません

 

いこまい 中山道 河渡宿祭 が10月の終わりに開催されます

 



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中山道美江寺宿

中山道の開設、徳川家康は関ヶ原の戦いで天下を制すると、道路の整備に着手しました。

慶長6年に東海道を定め、翌年に中山道を幕府の直轄地としました。

 

 

江戸と京都を結ぶ街道が東海道と中山道であって、海辺の東海道に対し中山道は山岳地帯を通過する山道です。

道は厳しく難所がありましたが、夏は涼しく四季の変化や野趣に富み旅を楽しむ街道でありました。

 

寛永14年(1637)赤坂宿と加納宿の間に美江寺宿が設けられた、この時幕府領であったが同16年に加納藩領に復した。

この地は低湿地で、しばしば洪水に襲われました、長雨が続くと長良川の逆水で宿前後の通行に難儀するところです。

 

 

美江寺村に隣接する呂九村は揖斐川の渡しがあり、織田信長公らの武将は呂九村に諸役を免除するなど保護を与えているように、この地は交通の要所であった。

 

美江寺を挟んで赤坂宿と河渡宿との間は約6里で、当時の人にとっては1日の行程であり、ほとんど宿泊を要しない「間の宿」と言われた。

 

本陣は宿駅設置の寛永14年より32年後の寛文9年に建設されました。

美江寺宿には美濃16宿の中で河渡宿と共に脇本陣はありませんでした。

 

 

建設当初の本陣は小規模な建物でありましたが、姫宮の通行に伴い建て増しなどが行われました。

建物は明治24年の濃尾震災で倒壊した為再建されましたが、この建物も老朽化して平成3年に改築しました。

現在は本陣跡として道標が建てられています。

 

中山道の大行列と言えば、加納宿でも書きましたが、皇女和宮の大行列です。

この美江寺では小休止だったそうです。

とは言え、一行が通過したのは4日間かかったそうです、宮の通行に関して見物の禁止・男性は目に触れるところ出ることを禁止など細部にわたり禁止事項が命令されました。

 

 

美江神社の境内に美江寺宿跡の碑があります、その奥に美江寺観音があります。

寺伝によれば、創建されたのは養老7年(723)の奈良時代です。

その後、戦国時代の天文18年(1549)頃斎藤道三公が岐阜に移したと言われています。

美江寺のご本尊は十一面観音で奈良時代後期に作られた物とされ、美濃にあるもので最古です。

 

 

現在の美江寺宿は、河渡宿方面から樽見鉄道を越えたところに北方谷汲方面との道標があって、それから美江神社まで西に行きそこから直角に曲がる感じで南に向かいます。

南に行くと本陣跡があります、そこから少し南に下ると赤坂方面と墨俣方面の道標があって、中山道は西に折れます。

 

 

川の手前に千手観音堂があります、中山道犀川通りの難所を通行する人々の安全を見守っています。



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市民講座

のぶさま。プレゼンツ

 

市民講座 のぶなが学校
 

第1回  信長を育てた町・岐阜

 

と、題して6月1日に行われました 

中日新聞の岐阜版に掲載されましたので、知ってる方もみえると思います

 

 

告知が遅れて、宣伝が出来て無く100人集客見込みが

申し込みが少なく、誰も来なかったらどうしようと心配になりましたが

30人強のお客様が集まってくれて

何とか講義は始まりました

 

 

遠い方では滋賀よりネットで見て申し込まれた方がみえて

好きな方には魅力的な講座なんですね

 

 

最初は円徳寺住職よりのお経

天正10年6月2日が本能寺の変が起こった日

各位焼香しました

 

信長を育てた町と題してました

岐阜という名を付けたのは織田信長公と言われてます

禅宗の住職達が付けたという説もありますが

実際、信長が来て岐阜という名前になり

岐阜町を斎藤道三公の後に発展させたのは信長公です

 

 

その町に育てられたと言うことは、どういう事なのか

そのキーワードは天下

信長公が称えた天下布武にも出てきますが

フムフム、結構面白い内容でした、書くにはもったいない(笑)

 

 

ちょっと眠たくなる時間もありましたが、面白い講座でした

今回が第1回として始まった市民講座

次回は12月頃に開催する予定です

今度はもっと早く宣伝しないとね(笑)


 



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まちなか案内人
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岐阜の「ええとこ」観光巡り。
観光だけでなく、まち歩きをして一服できるところや、グルメなどを、また脱線して意外なことをアップしてしまうかも知れません(笑)
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